ありがたや胸の鼓動は説法なり さては我が身も仏なるかな
露滴421
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ありがたや胸の鼓動は説法なり さては我が身も仏なるかな
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要点
現代語訳
ああ尊いことだ。胸の鼓動そのものが如来の説法である。そう思えば、この私自身もまさに仏に他ならない。 注釈
鼓動:心臓の拍動であるが、同時に「法鼓」の音にも通じる。 説法なり:法鼓が衆生に仏法を伝えるように、生命の営みそのものが法の表現であるという意。 解説
この歌は、個別の修行段階を超えて「生きとし生けるものの存在そのものが仏法を体現している」という大悟的な視点を示す。滴集全体の核心に迫る一句であり、生命を讃嘆しつつ「自己の仏性」を直観する力を持っている。 深掘り_嵯峨
この歌が表現しているのは、以下の密教的教えの核心です。 1. 鼓動(生命)即説法
胸の鼓動という生命の根源的なリズムそのものが、仏が真理を説く「説法」に他ならないと悟っています。これは、「声」や「言葉」といった外部の形式によらず、存在の全てが法(真理)を説いているという法身説法(ほっしんせっぽう)の境地です。 2. 我が身即仏
後半の「さては我が身も仏なるかな」は、一切衆生悉有仏性の真理を自己に適用した、最高の肯定です。自己を卑下する凡夫の迷いから完全に解放され、この肉体(五尺の身)そのものが仏であるという即身成仏の確信を示しています。 生命の鼓動が説法であるという事実に気づくことは、自己の存在が無条件に尊いと悟ることに繋がります。その無上の喜びと感謝が、「ありがたや」という言葉に凝縮されています。 この歌は、法話の最終的な結論として、聴衆の心に仏性への絶対的な安心感と希望を与える、最高の「結び」となるでしょう。